「’72全日本鈴鹿300キロ ツーリング・カー・レース」

1972年8月19、20日/鈴鹿サーキット
名古屋レーシングクラブ主催のツーリングカーによる300kmレースです。I部門は1300ccまでのTS(Tを含む)で、II部門は1300ccを超えるTS(Tを含む)によって争われます。また、F-JとFL-500のレースも併催されています。
I部門は、カローラ、パブリカ、サニー、サニー・クーペ、ホンダ1300クーペが参戦しています。実質的にはカローラ対サニーという図式になっており、カローラは、佐藤文康、見崎清志、サニーは、浅井恒久、鈴木誠一、歳森康師、太田和義、西野弘美、などが有力ドライバーです。
II部門は、セリカGT、カローラ・レビン、スカイラインGTR、カペラ、サバンナ、ロータリークーペ、ギャラン、ベレットGTRが参戦しています。日産勢はわずか2台と、壊滅状態になっています。主力はロータリー勢の従野孝司、山本高士、浅谷孝夫などで、トヨタ勢の藤田直広、久木留博之らがそれに対抗する形となります。
F部門の主力は、林将一(ハヤシ706)、高武富久美(ハヤシ706)、水谷敬一(ベルコ97A)、高田忠政(ベルコ97A)、力身修(グレイスKS-01)、畑川治(コダックSPL)、片山義美(KE)、鮒子田寛(エッソ・エクストラ)、高原敬武(エッソ・エクストラ)といったところです。ハヤシ、ベルコ、KEなどは、コンストラクターですが、シャシーがちょっと分からない車両名もあります。

プログラムにあまり読み物はないのですが、「”伝説のレーサー”浮谷東次郎のこと 俺様の宝石さ」という記事が出ています。浮谷東次郎は、私が(サーキット、テレビを通じて)生で見たことのないただひとりのトップドライバーで、まさに”伝説のレーサー”となっています。
「昭和40年5月30日、第2回クラブマン鈴鹿レースにてGT-Iクラス(カラス)とT-IIクラス(コロナ)で、初のニ種目優勝を成し遂げ、7月18日、第1回全日本自動車クラブ選手権船橋レースにてGT-Iクラス(トヨタS800)とGT-IIクラス(ロータス・エラン)のニ種目に優勝。
この時のトヨタS-800の劇的な追い込みは今だに「鬼の追い込み」として、人々に語り伝へられ、日本のレース史上に画期的な1ページを残した。
昭和40年8月20日午后4時、鈴鹿サーキット・150Rにて練習中事故、翌21日死亡。
彼の葬儀は鈴鹿サーキットにて、大勢のレース関係者、ファンに見守られて、追悼パレードが行われサーキットコースを三周、最後のチェッカーフラッグを受け、永遠の旅にスタートした」。享年23歳。

「俺様の宝石さ」は、浮谷東次郎が18歳(1960年)から20歳(1962年)までの3年間、アメリカで暮らした日記、メモ、家族へ送った手紙などが家族による編集、装丁によって自費出版されたもので、後に筑摩書房からも出版されています。
浮谷東次郎は、横浜を出航してサンフランシスコ着、ロスアンゼルス滞在(アメリカホンダの川島邸)、ニューヨーク滞在(スポンサーのF家)、タイム&ライフ社勤務、カリフォルニア州立サンアントニオカレッジ入学、出席日数不足で退学、大陸横断往復旅行、ポモナのホンダ代理店でメカニックをしながらオートバイレースに出場、といった遍歴を繰り広げます。
その中で、「ちくしょうロックフェラーなんか」、「もう僕には怖いものなんて何もない」、「僕は大成すべき人」、「僕はこの青春を楽しむんだ。がんばれ浮谷権兵衛19世!」などと綴っています。
彼の語録からは、伝説になるべくしてなった人だということがうかがえます。もし生きていれば、生沢徹、高橋国光と並び称せられたことは想像に難くありません。

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