「’75鈴鹿フォーミュラジャパンレース」

1975年3月8、9日/鈴鹿サーキット
1月12日に行われた「鈴鹿300キロレース」を受けてのFJ1300の第2戦となります。初戦で勝利を飾った長谷見昌弘(マーチ日産)が予選でも圧倒的な強さを見せ、2分08秒1でポールポジションを奪っています。
以下、2.杉崎直司(マーチ743無限)2分10秒6、3.速見翔(マルチレッドシャーク無限)2分10秒9、4.西野弘美(ウメダスペシャル日産)2分11秒1、5.片山義美(マーチ無限)2分11秒5、6.高橋健二(マーチ日産)2分11秒5、7.宮脇伸介(マーチ743日産)2分11秒5、8.高武富久美(ノバ01無限)2分11秒6、9.松本恵二(マーチ743日産)2分11秒7、10.都平健二(マーチ日産)2分12秒7、と続きます。

サポートイベントには、注目のドライバーが顔を覗かせています。中嶋悟です。
FL500では、1.力身修(ハヤシ709Sスズキ)2分24秒1、2.金田政行(ベルコ97Aスズキ) 2分25秒9、3.道上佐堵志(ハヤシ709Sスズキ)、に続き、ベルコ97Aスズキに乗り2分26秒6で4番手。
ツーリングチャンピオンレースでは、1.片山義美(サバンナ)2分16秒0に次いで、サバンナに乗り2分20秒2で2番手。いずれも、FL500では圧倒的な強さを誇る力身修、ロータリーエンジンの雄・片山義美、には大きく遅れをとっていますが、その才能の片鱗を覗かせてはいます。

プログラムの読み物は、「再現シリーズ! 鈴鹿名場面」では、1969年の「全日本鈴鹿自動車レース」のひとこまを、「今年の”FJキング”は誰か?」では今年のFJ1300の展望を、「Suzukaサーキットだよ」ではイラストでプロレーサーのシフトチェンジを、「真実も曲げて伝える★ゴシップコミックスVOL1」では、各ドライバーの本誌に寄せられた言葉を、それぞれ紹介しています。
「ベルコ、ノバそして”マーチ”」は、1975年で切れる現行FJ1300の3年間を振り返ります。
ベルコ98Aは、マーチ733の登場により、コスト重視で抑えていた各部パーツをグレードアップし、ボーグ&ベッグのクラッチ、ベンチレーテッドディスク、コニやビルシュタインのダンパー、フロントサスペンションのジオメトリー変更、軽量マグネシウムホイールの採用、エアロダイナミクスの追求、など各所に及んでいます。
それでも、1975年のユーザーは減少しています。ノバ01は、1973年のデビュー時から大きな変更は行っておらず、F2000のノバ02の開発と並行しながら熟成していきます。
マーチ733/743は、1974年に全勝し、延べ出走台数も73台と、1973年のベルコ98Aと同じになっています。しかし、コーナリング中にテールが腰砕けになる性格があり、純然たるプライベートチームは手を焼いていたそうです。

「長谷見昌弘 フォーミュラシリーズに賭ける」は、長谷見昌弘の特集です。
彼は、1962年に16歳という若さでモーターサイクルレースで知名度を上げ、1964年には日産のオーディションに合格、1965年から日産と契約を交わしています。
そして、デビューレースでブルーバードSSに乗ってデビューウィン。必勝法は、「他人よりブレーキングを遅らせ、ただただコーナーの突っ込みを速める」でした。
しかし、1965年7月の「CCCレース」で浮谷東次郎のレーシング・エランをフェアレディで深追いしてクラッシュ、1968年に日産大森を辞め、タキ・レーシングに移籍します。
そこで、ポルシェ、ローラT70MKIIIなどを経験し、1970年に日産に戻ります。1973年、メーカーからプライベート参戦が認められるようになると、FJ1300を主戦場とし、F2のマーチ742もドライブします。
彼には、特定の理想的なコーナリングラインというものがなく、すべて感覚で操縦しています。また、「力のあるメカニックがつけば、タイムは何秒でも縮まる」とも言います。

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